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日本近現代史を再読

渋沢 元治 伝【電気立国を担う】

  『日本の電気立国を担う:渋沢元治』 全ての人に電気の恩恵を   
  澁澤元治は、実業家:澁澤栄一の甥。元治は、生涯を通じ自分の信念を貫いた。  
『日本の産業・社会を電気エネルギーで発展させ、全ての人に電気の恩恵を行き渡らす』  
4元治◆危険電圧を自分の身体で実験 
   逓信省電気局の主任技師の元治は、100V電灯の普及に、自分で人体実験して、その安全性を確かめた。大正の初め、鉱山坑内の危険なカンテラを減らすのに、100V電灯線の使用を認めるためだった。主任技師の元治は、議論しても始まらない、一体人間はどの位の電圧に耐えられるのか、自ら実験を行った。この決定は、日本の家庭用電圧が世界的にも最も低電圧で、安全性の高い100V中心に発展するきっかけとなった。  
◆電気を通して世界平和を訴える 
和やわらぎを以って貴しと為す』  
6_20140608225627171.jpg   人と争うことのない温厚な紳士で、自分の信念を曲げなかった。大正10年、元治は電気技術者が集う第1回:国際大電力システム会議(CIGRE)に日本代表として参加。 このパリ会議と同時期に、ワシントンで海軍軍縮会議が開かれ、五大強国・三大強国とうぬぼれた日本は、米英と互角の海軍力を要求した。元治はこの軍縮会議に触れ、次の発言で満場の喝采を浴びた。『~ 電気界の世界的提携を進める我々の会議の方が、遥かに世界平和に貢献する効果は大きい~』 日本を代表するエンジニアの誇りと信念だ。  
◆電気事業育成の立役者として    
  明治末~大正期は、日本の電力開発の躍進期で、全国500社以上の電灯電力会社が生まれた。これを指導監督する逓信省電気局の渋沢元治は、電気事業を[儲かる商売]としか考えない風潮を正し、公益事業の枠組みを創った。電気事業法、電気工作物規程、主任技術者制度』など、現在の電気事業の基盤は全てこの時代のもの。 

    【 電気工学への道 】   
  明治9年10月25日、澁澤元治は埼玉県血洗島村
(深谷市)の農家に誕生。栄一の甥にあたる。元治が初めて電灯を見たのは、上京して1年後の明治23年。永田町の大蔵大臣邸に光輝く門灯を初めてみて、電気の輝きに驚きと感動を覚えた。東京に初めて電灯が点いたのは明治22年。1変流器文明開化の真只中、日本の電気創成期に、青春を迎えた。 
◆実習で新技術を開発   
 
  東大電気工学科の現場実習で、小田原馬車鉄道会社の電化工事現場を選んだ。変電所の回転変流機の据付・運転を体験。大学の講義でなく、海外雑誌・論文を頼りに試行錯誤を重ね、継続運転に持ち込んだ。 
    【 海外留学、最新の電気技術を日本へ 】  
明治35年、澁澤栄一夫妻と元治
(満25歳)の一行は、世界周遊に出発。サンフランシスコの市街には縦横に電気鉄道が走り、市民の足となっていた。水力発電所は4万Vの高圧長距離送電で、技術的には日本でも実現可能なことを確証した。アメリカの鉄工場・機関車,車両工場など、全て大規模で機械化・自動化されていた。元治は、工業発展の基礎が電力で、日本も大規模水力発電による電源開発が急務と痛感した 
◆ドイツ・シーメンス工場実習
   明治35年9月、ベルリン郊外のシーメンス工場で実習。ドイツでは工科大学の学位取得は、半年間の工場実習が必修。現場の作業体験がなければ創意工夫は生まれないというのがエンジニア教育の伝統だった。 
◆スイスの水力発電を学ぶ
   資源の乏しい日本は、水力発電が重要と考えた。スイスは水力利用を国是とし、国中の水力地点を詳細に調査していた。スイスの河川は日本に似ており、日本に建設が可能だった。水力発電について、チューリッヒ工科大学で本格的に勉強した。 
◆GE社の工場実習
   明治37年、ジェネラル・エレクトリック社
(GE)で工場実習。製造機械の検査から始め、最終調整まで行い、納品先企業から評価されると技術者として雇用される。GE社には当時数百人の各国の実習生がいた。明治39年(31歳)帰国、3年9ケ月の留学だった。
    【 逓信省の技師、電気事業の育成に東奔西
帰国した澁澤元治は、世界最高の電気工学と最新技術に裏付けられた固い信念があった。官吏を嫌い、民間の実業をめざした栄一に真っ向から逆らい、「実業を興すには、動力として電気の普及が不可欠で、一企業ではできない」と官吏を選んだ。
◆全国の電気工事を検査
 
明治39年、恩師が務める逓信省電気試験所に入る。明治30年代の日本の電力需要は急激増とはいえ、僅か10万kW程度で、電灯需要が殆ど。電力供給事業者は200社を越え、多くが数10kW
2発電所程度の玩具の発電所だった。元治は、新設電気設備の検査を担った。 
◆駒橋発電所の建設
 
帰国後の明治39年:画期的な大規模水力発電工事が開始された。山中湖を水源とする駒橋発電所は1万5千kWの大容量、東京まで
(80km)を世界最高レベル(5万5千V)で高圧送電する。この国家事業の主任検査官に元治が任命された。発電機・変圧器・配電盤・水圧鉄管などシーメンス社、GE社の輸入品で、工事も海外技師を中心に進められた。外国人技師のいい加減な作業を、元治はドイツ技術誌を突きつけて指摘しながら完成。高湿度の日本ではスイッチの木製柄が絶縁不良を起こすので、エボナイトに変えさせた。元治が決めた基準の多くが、その後の検査基準となった。
◆公益事業としての電気(規制から保護へ) 
 
高圧送電線の架設による地主補償問題や無理難題をいう者もいた。明治40年、元治の働きで逓信省は、特別高圧電線路取締規則を公布:第8条「電線ニ接近シテ濫リニ建造物ヲ建設スル等電気的障害ヲ生ズベキ行為ヲ為スベカラズ」と定めた。案の定、送電線下に小屋を建てる者がいた。直ちに取締規則を発動し撤去させた。元治は単なる技術・行政指導の枠を越え、現実に即した電力政策を進めた。駒橋発電所の完成で、廉価で安定した電力供給を実現し、東京からガス灯・石油ランプを駆逐。高圧長距離送電の成功で、全国に次々と大規模水力発電の開発が拡大した。
◆水力調査に取り組む
   明治41年、逓信大臣"後藤新平”は、特命で元治に木曽川の水力調査を命じた。木曽川とその支流を踏破し、水量と落差を目測。木曽川の材木流しを、建設中の鉄道に振り替え輸送できると結論し、20万kWの発電が可能と報告した。元治の提言から、[発電水力調査5カ年計画]が実施され、日本の包蔵水力の概要が明らかになった
◆鉄道の電化に取り組む
 
元治は、鉄道の電化も推進。明治42年、鉄道院総裁"後藤新平”は、元治に鉄道院技師を兼任させ、幹線の電化を命じた。しかし明治期は、安価石炭に見合う電力供給は困難で、山手線と碓氷峠
(アプト式軌道)の電化実現に留まった。当時、架空複線式が主流だった。これは架空単線式が地中水道・ガス鉄管、電話線の漏洩・腐蝕を懸念していた。海外は単線式が主流で、複線式は故障が多く電流を増やせないことが常識だった。元治は、単線式の漏洩対策が可能だと確信していた。大正9年、元治は鉄道省に山手線の単線式化を実現させた。これ以降、架空単線式で、本格的な鉄道電化が進んだ
    【 電気保安の基礎を築く
明治44年、電気事業法と同時に電気工作物規程が制定され、元治は主査を担った。主旨は、人の生命・財産への危害を予防し、堅実な施設を確保して停電事故を防ぎ、公益事業としての責務を果たすこと。
◆電気工作物規程と規格
 
当時の漏電・感電の多くが粗雑な屋内工事に起因。輸入電気機器の一部に手抜き製品もあり、高湿度の日本では絶縁不良が多発した。明治41年、国際電気標準会議(IEC)が開かれ、国際規格化が始まった。日本の絶縁耐力・許容電流・強度など工作物の規定は、元治が技術課長の大正10年だった。
◆通信線の誘導障害を解明
 
高圧送電線の誘導障害に、明治45年、元治は完成直後の大井川発電所で、誘導作用の解明実験を行った。大勢の関係者を動員し、実験を繰り返し故障で接地して大地電流が流れた場合に起きる誘導現象を解明した。誘導作用の実用公式を作成し、国際会議で発表した。新しい電灯配線で、電話が通話不能に陥ってしまう原因が、従来の単巻変圧器の、星形接続で誘導作用が原因と判明した。 
    【 逓信省技術課長へ、技術行政の中での研究開発 】
元治は、単なる行政官では終わらない探究心を抱き続け、エンジニアの自己を示す。
博士論文を書き続け、明治44年 工学博士:論文テーマ同期電機の特性を取得。明治時代の博士は貴重で、論文による博士号は元治が3人目。
◆技術課長(電気事業技術の総元締め)
 
第一次世界大戦の最中は輸入が途絶え、電気機器や材料の国産化を進めるチャンスと、若い技師を動員して研究に注力した。明治44年、主任技術者制度を改正
。規格統一も精力的に取組み、大正10年:工業品規格統一の中心的役割を担った。
◆関東大震災の復旧 
 
大正12年、関東大震災の復興で電灯よりもまず生活用水の確保と、淀橋浄水所に送電して3日で復旧。電灯の復旧に、6社の電気事業者を集結、復旧作業に当たった。
    【 東大教授から、名大総長へ 】研究者・教育者としての第二の人生 
大正13年の1年間:電気学会会長を担った。同年:東京帝国大学工学部教授、昭和4年:工学部長。元治の教育指導理念は『実習実験に主眼をおき、自らの努力で学問を技術として体得』にあった。経済恐慌・治安維持法・満州事変の激動の時代に、元治は座右の銘[和を以って貴しと為す]を訴え、吹き荒れた思想問題の嵐に、一人の処罰者も出さなかった。
昭和14年(満62歳)新設の名古屋帝大の初代総長に就任。
◆故郷血洗島に帰る
 
昭和21年、元治は総長を辞任、故郷血洗島に帰郷。12歳で東京に出てから60年近い歳月が経っていた。昭和30年、電気関係で初の文化功労者として褒章。これを記念して創設された『澁澤賞』は、何よりも喜びだった。昭和50年
(1975) 99歳で永眠。 
   [澁澤栄一は日本の経済立国を担い]  [澁澤元治は電気立国を担った]
二人は同じ家郷を出て、はそれぞれに自分の人生をかけて時代を担ったのである。
       ※実業家:栄一と
官吏:元治が関与した、電力会社の創設と統合:
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                渋沢栄一記念財団 資料を参照 
                    澁澤元治 日本電気協会を参照
   
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  • 渋沢 栄一 伝【経済立国を担う】
  • 旧古河庭園&飛鳥山公園